公式の教育課程(表のカリキュラム)をどんなに変えても、日常の学校文化に埋め込まれた「隠れたカリキュラム」が変わらない限り、社会関係のパターンを変更することは難しい。
表向きの公式のカリキュラムが変わっても、個人の形成の仕方や社会関係のパターンといった社会のつくり方が変わるとは限らない。
表のカリキュラム以上に「隠れたカリキュラム」が人びとの社会化に大きな影響を及ぼしている。
教育の社会学研究か「隠れたカリキュラム」の発見によって明らかにしたこの知見は、無視できないのである。
既存の学校文化との妥協の産物として、カギカコ付きの「個性主義」の教育か行われれば、同調主義を下敷きにした「弱い個人」を大量に生むだけだろう。
そこに、前述の格差問題が絡まれば、ますます事態は複雑さを増し、改革の掲げる額面通りには進まなくなる。
その結果、同調主義に抗することのできない脆弱な個人が、階層的に分断され、批判的精神を備えることなく、社会奉仕へと向かう事態も想定できる。
そうなったら、公共性と個人との関係はどのようなものになるのだろうか。
社会の機能的な単位としての「個人」の知的力能をどうやって育てていくのか。
集合的に見れば、この課題は、社会全体の知的水準や教養の問題となる。
それゆえ、すぐれて教育の問題であるはずなのに、大衆教育社会のもとでの「新しい学力」の教育はこうした論点には及ばない。
これでは、ナショナリスティクな公共性の議論に押されるばかりである。
それにしても、なぜ、M科省は、一方で子ども中心主義の教育観を押し出しつつ、他方で、国家主義的色彩を持つ基本法の改正に手を出した、奉仕活動義務化の提言に耳を貸すのか。
こうしたねじれのもとで、「個人の形成」は、どのような問題をはらむことになるのか。
解明するためには、国家の役割の変容について検討しなければならない。
学力低下の問題提起の中で、私か一貫して批判してきたのは、教育の実態把握を欠いた改革の問題点であった。
なぜ、実態把握や実証にこだわったのか。
その第1の理由は、もちろん、実態がわからなければ、改革の具体的な手だてを考えることはできないという常識的な判断だった。
M部省(当時)対N教組の対立の時代に象徴されたように、かつて、教育政策における国家の役割は絶大なものと見なされていた。
「入口」とプロセスの管理を中心に、国が定めた施策が全国津々浦々の学校でどのように実現しているのかをコントロールするのが、国家の役割だと思われていた。
格安航空券について、数年にわたり悪化の一途をたどってきた格安航空券の改善をアピールした。